信仰と僕の結婚観

信じるということ

自覚的であろうとなかろうと、人間はものすごく多くのことを「信じて」いる。

多くの人は自分が80歳ぐらいまで生きられるだろうと信じているだろうし、天井が落ちてこないと信じているだろうし、1秒前の自分と現在の自分が連続した一つの人格であると信じていると思う。科学だって信じることから始まる。

書き出しから「あ、やばいこいつ、ついに怪しい宗教にでも手を出しちゃったかな」と思った人もいるかもしれないが安心して欲しい。壺さえ買ってくれればしつこく勧誘はしない。

信じることの力

何かを信じているという状態には大きな力がある。信じているものが拠り所となり、それ以上の「なぜ」がなくなる。迷いが無くなる。勿論「なぜ」が無くなることには危うさもある。

ジョジョの奇妙な冒険の登場人物たちのカッコよさと気持ち悪さは、彼らが何かをひたすら信じているところにあるんじゃないかと僕は思っている。そして彼らに感じる「異常さ」は信じているものの異常さにあるんじゃないかとも思う。

原理が異常であれば、論理的に正しく推論したとしても帰結は異常になりうる。なので、僕は自分が信じていることになるべく自覚的でありたいと思っている。しかし同時に信じることのもつ力への憧れも持っている。

僕の結婚観

幼稚園の頃からテレビドラマばかり見て育った僕は結婚に夢を見ていた。運命的に出会った二人が結果として運命的に結ばれる。大体そんなことを考えていたんじゃないかと思う。

成長してちょっとひねくれた僕は、結婚なんて意味が無いと思っていた。あるにしても法律や制度上のメリットや、周りの人を喜ばせるためぐらいに思っていた。

さて、今はどうかというと
結婚とは「この人と幸せになりたい教」に入信すること
なんじゃないかと思っている。
相手がそう思わせるような人であることが大きいと思うが、いろんな要素が絡んで今は、結婚というのは結果ではなく決意と宣言なんだと思う。自分が「この人と幸せになりたい」と信じていることに自覚的でありながら、それを信じていくこと、そのために努めることを決意し表明するという、すごく主体的な行為なんだと思う。

友人曰く「そんなの当たり前じゃん」ということなので、ようやく普通の人間らしい結婚観に辿り着いたのかもしれない。

まぁ、結局何が言いたいかというとプロポーズして婚約しましたということです。